合理的に生きていきたい。
理由のないことに従うのなんてまっぴらだ。
ところでまっぴらって日本語、なんなんだ。
1.《副ダ》「まっぴら御免」の略。絶対いやなこと。
2.《副ナノ》ひたすら。ひとえに。ひらに。
語源ははっきりしていないらしい。
ぼくはこんな風に頻繁に辞書を引く。
ちょっとわからないことがあったらすぐスマホを出して検索をかける。
それもすべて、「理由」を知りたいからだ。
合理的でありたい。
合理的というのは、論理的で、能率的で、つまりは理にかなっているということ。
問題があって、理由があって(知っていて)、結論としてそれに基づいた行動をしたい。
たぶん、これは性格的なものだと思う。
この考え方を気持ち悪く感じる人もいる。きっとA型とO型みたいなものだ。(ぼくはA型)
でもぼくはその理由の部分がわからないことがどうにも気持ち悪いし、シンプルに「なんかいや」だ。
その行動に、そのルールに理由はあるか。
たとえばルール。
前にも同じことを書いた気がするけれど、
「信号を守らなきゃいけないのは『ルールだから』」ではないんですよ。
それはあくまで「危険から自分の身を守るため」であって。
もちろんこの社会には法律というものがあるから、そういう意味(捕まらないために)でなら間違ってはいないのだけれど。
ぼくが言いたいのは、そんな法律やルールが先にきて(鵜呑みにして)、理由や根拠を考えずに行動してしまってないか。ということ。
理由→ルール→行動の順序でないと、地に足が着かなくなってしまうと思うんだよ。
「守るのが当たり前」ではない。
どうにもその順序というか、根本の部分を置き去りにしていること(人)が多いなと思ったんです。もちろんこれまでの自分も含めて。
多くの場合、「守るのが当たり前」になっている環境に流されてしまってるのだと思います。
もちろんルールを守ることによって守られるものもあるけれど、それを万人に強要するのは絶対に違う。それは「当たり前」ではない。
「郷に入れば郷に従え」という言葉がありますが、ぼくはこれには大反対で。
確かに賢い生き方ではある。そうしてほしい気持ちもそうしたい気持ちもわかる。お互い楽だし。
でも心の内で違和感や不満を感じつつも「とりあえず従っておくか」と妥協してしまうのは、自分で判断することを怠っており、自分自身を大切にしていない、愚かな行為だとぼくは思う。
(ぼくも100%自分の意思で行動できているかと言われたらまったくできていないので、偉そうなことは言えないのだけれど。)
ルールは集団行動を円滑にするためのもの。
でもあくまで前提として個人があっての集団。
だったらまずは自分がどう思うか、の声を聞くのが先ではないだろうか。
ルールに自分を合わせるのでなく、自分に合う環境を選んで生きる。
それで自分の声を聞いて、その環境のルールに違和感を感じるのなら、無理に合わせる必要はない。
自分が居心地良い環境で生きればいいだけだ。
それが職場ならさっさと転職するのがいいし、それが国なら海外に行けばいい。環境の選択肢なんて知らないだけで山ほどある。
「そんな簡単な話じゃない」と思いがちだけど、環境を変えるというその一歩を踏み出すだけで案外大きく変わるものだ。それをしない人がほとんどなだけで。
自分は少数派だから、とかそんなことは考えずに自分の心にひたすら素直に判断を下し続けることが、個人が幸せになる上でいちばん大事なことなんじゃないかとぼくは思うのです。
まとめ
やっぱさ、理不尽な職場ってあるじゃない。
ほんとうに馬鹿馬鹿しいルールがあるのに、誰も何も言わずに従ってるのがなんだか気持ち悪くて。
あと理由も言わずにただ「ダメ」って言うの、ほんとに良くないよね。
そういうダメダメ上司がいたら、
「なんでですか?」
「あなたは理由も説明できないことを人に強要しているんですか?」
って言ってやればいいよ。
合理的に。
ぼくはそんな感じで生きたいです。
無意識にルールに従うのなんて、
まっぴら御免だ。
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