信号を守らなきゃいけないのは「ルールだから」?




 

ルールというものについて考えることがあります。

僕たちはルールに縛られすぎなんじゃないかって。

 

僕はそれが苦しいと感じる。

もっと、自由に生きたいと思うのだ。

 

ルールに縛られる生き方

例えば校則。

髪の色、服装、スカート丈、ベルトまで。

それを統一して何になると言うのだろう。

統一されないことによるデメリットは何かあるんだろうか。

 

例えば、信号。

人通りのほとんどない夜の道。遠くを見渡せるような道で、車の走ってくる様子も全く見えない。

安全が確認できてなお、そこにある歩行者信号をあなたは止まるのだろうか。

 

なぜ?「ルールだから」?

 

何のためのルールなのか

もちろんルールは必要だ。

平和などのために定められるべきことや守られるべきことは確かにある。

難しいことはわからないけど、ないと色々と崩壊してしまうのも確かだ。

 

でも自分の目の前にあるルールがなぜ存在するのかどういった意味を持つのかを常に考えて行動したい。

さっきの信号の例えで言えば、「信号を守るのはどうして?」という問い。

これに対して

そういうルールだからよ」
どうしても。

なんて自分の子どもに教えるような大人になってはいけないと思うのだ。

少なくとも僕は絶対になりたくない、と思う。

 

言うまでもなく、信号を守らなければいけないのは安全に道を渡るため命を守るためだ。

つまり先ほどのような車通りのない場所で歩行者信号が赤だったとして、極端な話、自分で安全が確認できるのなら律儀に信号を守る必要はないと思うのだ。

 

この信号の例は簡単なものだけど、自分の周りにあるルールの意味、必要性を一度考えてみて欲しい。

何も考えずただ従ってきたものや鵜呑みにしているものがたくさんあることに気づくと思う。

 

自分で考えて生きる力

何が言いたいかというと、ルールは僕たちを守ってくれないということだ。

 

語弊があるかもしれないけどもちろんルールによって守られてるものもある。

ただそれは100%じゃない

信号を律儀に守っていても、信号が青でも、居眠り運転の車が突っ込んできたらもう終わりなのである。

だからこそ僕たちは真面目さの殻を破らなければならない

自分を守れるのは自分しかいないのだ

 

ルールを破れと言ってるわけではない。

もちろんルールを守ることも大切だ。

 

ただそこに自分の意思をきちんと持ちたい。

自分の目で、頭で、なぜそうするかを考えて判断する力を持たないと、いつまでも周りに流されてばかりで、自分らしい生き方なんてものはできやしないだろう。

 

人間らしく、自分らしく生きるためには自分で考えて判断する力を養わないといけない世の中だと心底思う。

ただただルールに従ってたらそんなの機械と同じだ。

意味を考えて疑問を持って、自分の意思で行動しないと、生きてる実感も何もない。

そう思うんだ。

 

まとめ

特に日本人は社会性が強いのでこういうルールに縛られがちな傾向にあると思う。

小さい頃から「あれはダメ」「これはダメ」と大人に叩き込まれて育ってきたからこうなるのは当たり前なんだけど。

 

フィンランドの学校では日本のような校則がほとんどないという。

ルールで縛ることで自由度は低くなり、個性が生かされる機会がどんどん少なくなってしまう。

日本という国を変えるのはすぐにはできないかもしれないけど、自分単位のことなら今日からでも行動に移すことができる。

 

自分の意思で、したたかに生きたい。

一人一人がもっと自由に、のびのびと生きれますように。

 

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