「教育」って、難しいものだと思う。
親は子どもを育て、学校は生徒を育て、職場では社員を育てる。
生まれてから大人になるまで様々な場で色んな人による教育で人は育つ。
大人になったらなったでまた我が子の教育が始まる。
「教育ってどうあるのが正解なんだろう」
と、いつも思う。
もちろん正解なんてないけれど、それでもぼくは今までの人生で幾度となく周りの教育に違和感を感じてきた。
今回はその違和感と理想の形についてじっくり向き合ってみたい。
以前読んだ1冊の本、教育についてアドラー心理学の観点から述べている『幸せになる勇気』とともにまとめていけたらと思う。
教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」
教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」
先に結論を述べる形をとると、ぼくはこのことが教育において一番大切なことなんじゃないかと思う。
教育者は相手に介入するべきではない。
あくまで援助できる体制をもって近くで見守り、自立をサポートするのが理想的だと思っている。
さらにこれを2つに分けて考えたい。
すべての人間は対等である
すべての人間は対等だ。
特別な人間なんていないのに、しかし「上下関係が存在しないこと」を理解している人は少ないように思う。
子どもは親に従い、生徒は教師に従い、社員は上司に従うのが「普通」になってはいないだろうか。
そこにもっと多くの人が違和感を感じて声をあげても良いのにとぼくはいつも感じている。
対人関係に上下の関係を見出すのは「他人を支配しよう」とする感情の表れだ。
それは同じ人間への行動として、いささか愚かなことではないだろうか。
「課題の分離」
アドラー心理学の概念の中で重要なものに「課題の分離」がある。このブログでも何度も紹介している言葉だ。
>>アドラー心理学の「課題の分離」で他人の目を気にせず生きよう
課題の分離
まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。そして課題の分離をしましょう。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。
そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。
「自分と他人は違う人間であって、自分の課題と他人の課題は違う」ということを常に頭に入れておきたい。
その課題が誰の課題なのかをきちんと見極めて線引きをし、介入しないこと。
その上で、「助けを求められたらいつでも援助できる」という態度でそばにいること。
それこそが理想の教育者の在り方だ。
漫画「ワンピース」でナミがルフィに助けを求めるシーンがあるけど、ルフィはナミがちゃんと助けを求めるまでは、何があっても手も口も出さない。
でもずっとそばで見てはいて、ついに助けを求めるのを聞いてこう答える。
こうありたい。
叱るも褒めるもしない「尊敬」
『幸せになる勇気』では、教育において叱ることも褒めることもしてはいけないと説いている。
もしも「叱る」という手段が教育上有効であるのなら、せいぜいはじめの何回か叱っておけば、問題行動はなくなるはずです。それがどうして「いつも」叱ることになってしまうのか
叱ることは互いの「尊敬」を毀損する行為である。
ほめることは競争原理を生み、「他者は敵である」を植えつける。
賞罰は子どもの「自立」を妨げる。自分の支配下に置こうとする行為
「尊敬とは、その人が、その人らしく成長発展していけるよう、気づかうことである」
「尊敬とは、人間の姿をありのままに見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力のことである。」
すべての教育においてアドラーは、互いの「尊敬」があるべきだと言う。
その尊敬こそが、「その人がその人らしく成長発展していけるよう、気づかうこと」であり、先に述べたような援助体制だ。
尊敬さえあれば、賞罰は必要ない。
むしろ賞罰は子どもの自立を妨げるものになり得るし、そもそも賞罰そのものが上下関係を示唆する行為でもある。(褒めるのは上から目線の行為であり、本来尊敬で成り立つべきもののはず)
「厳しく教育してくれたおかげで〇〇できた」と感謝される、というケースはたまに存在するけど、その教育者は本当の意味での教育には失敗している。
そうではなく、「自らの力で成し遂げた」と感じてもらわないといけないのだ。
自分の人生は自分で選ぶことができる
たとえば子どもから「友達のところに遊びに行ってもいい?」と聞かれる。
このとき「もちろんいいよ」と許可を与えたり、「宿題をやってからね」と条件を付ける親がいます。
あるいは、遊びに行くこと自体を禁止する親もいるでしょう。
これはいずれも、子どもを「依存」と「無責任」の地位に置く行為です。
そうではなく、「それは自分が決めていいんだよ」と教えること。
自分の人生は、日々の行いはすべて自分で決定するものなのだと教えること。
そして、決めるにあたって必要な材料ーー例えば、知識や経験ーーがあれば、それを提供していくこと。
それが教育者のあるべき姿なのです。
これもとっても大切なこと。
親が子どもに「禁止」や「許可」をすること自体間違っているし、それは「子どもを危険から守りたい」という気持ちを超越した支配欲であると思う。
あくまで個人の決断を尊重し、その決断を援助する姿勢でいること。
確かに子どもは危なっかしくて不安になるけど、親の人生を子どもが生きるなんてことは絶対にあってはいけない。
過保護、過介入にならずに、安全に失敗を経験させてあげられる教育者でありたい。
まとめ
いつか自分に子どもができたら、いや、子どもに対してだけじゃなく職場や友人でも、すべての対人関係においてこれらの考え方は重要なことだと思っている。
自分と関わる一人一人が、自由で素直な人生を生きられるよう、見守りたいと思う。
「与えよ、さらば与えられん」
という言葉がこの本にある。
それは無償の愛であり、条件のない「信頼」だ。
そうやってまず自分から、相手を愛せる人間でありたい。
愛について自分はあまりに無知だ。
同作者、岸見一郎の新作「愛とためらいの哲学」を次に読んでみたいと思う。
kopetaさん
ブログ初めて拝読致しました。
とてもまとまった文章で、もっと歳上の方が書いているのかと思いました。
同世代で共感できる内容でした!
これからも時々おじゃまいたします♫
mamekkouさん
嬉しいお言葉ありがとうございます!
初めてブログでコメントをいただけたのでめちゃめちゃ嬉しいです。
また気が向いたら遊びに来てください〜٩( ‘ω’ )و!