「みんな」のために自分を犠牲にするのが「大人」だとは思わない。




 

先日Twitter(実際に起こったのはイベント)で、とあるいざこざが話題になりました。

当事者は宇野常寛(@wakusei2nd)さんと、カジサック(@kajisac_onashas)さん。

 

とても学びの多い事件だと感じたので、個人の感想も含めてまとめます。

宇野さんの生の言葉がとても痛快で多くの人に読んで欲しいので本人ツイート引用多めで。

 

イベントで起こったことの整理

①カジサックが宇野さんに失礼ないじりをし、②不快に思った宇野さんがイベント途中で帰った

 

 

イベント中に宇野さんがカジサックに失礼な絡みをされ、不快に思ってイベントを途中退席した。というのが一連の流れ。

 

カジサックの言い分としては、

「みんなが面白くなるために(嫌がらせを)した」
「芸人として当たり前のことをしただけだから謝罪しない」

とのこと。

 

「いじる」ことは面白い、は「いじめ」そのものになり得る。

 

 

 

仕事であるイベントを途中退席したと言う宇野さんのツイートに続々と届く「無責任」「大人気ない」「場の空気を壊すな」といった類の声。

 

でも少し考えてみてほしい。

・いじってる側は面白いと思ってやっている

・いじられてる本人が嫌がらせだと感じている

この2つの条件が揃ってしまったら、それはもう、「いじめ」そのものじゃないか。

 

それでもなお、「みんな」のため、「場の空気」を壊さないため、「仕事」のためといった理由で、それを我慢しろと言うのだろうか。

 

「場の空気を読む」ことや「みんな」のために自分を犠牲にすることが正しいのか

 

 

 

「自分」を犠牲にして「みんな」のことを考えることが果たして「大人」か?

誰かのために、自分から積極的に身を削って何かをする、というのならわかる。それは素敵なことだ。

でも「みんな」や「場の空気」のために、嫌だと思うことを我慢してやるというのは、一見美しいようで、「自分」が不幸になってしまっている

「みんな」の中に、「自分」が入っていない。

「それでみんなが喜ぶなら」と我慢することが大人だとは、ぼくは思わない。それは自分を大切にしない愚かな人間だとすら思う。

 

今回の宇野さんのように、「場の空気」なんて関係なく嫌だ」と意思表明して逃げる勇気を持った人のほうが、よっぽど素敵だし、「大人」だ。

 

帰った人が場を悪くしたのではなく、帰らせた人が場を悪くしたと考えるのが自然。

「いじられたからってイベントを途中放棄して帰り場の空気を悪くした」と叩く人がいるが、

そもそも今回の場合、帰った宇野さんが場を悪くしたのではなく、いじることで帰るという行動を起こさせるまでに不快感を与えたカジサックが場を悪くしたと考えるのが自然ではないだろうか。

 

我慢せずに逃げろ。遠慮なく距離を取れ。躊躇せず繋がりを切れ。

 

 

「自分」が感じた違和感の声をきちんと聞く。

今回の宇野さんの行動は本当に見習いたいと心から思う。

社会性が強く「和」を重んじる日本では、特にこういった「空気」を大事にする風潮が強い。

そんな環境の中で育ったぼくらは、自分が感じた小さな違和感を、全体の「空気」のために抑え込んでしまいがちだ。

その心の声はきちんと聞いてあげないといけない。

日々の小さな違和感に一つ一つしっかりと向き合い、行動して解消していくことが、個人が幸せになるために大切だ。と思う。

 

逃げる勇気を持つ。

そしてもう一つ大事なのは、そういった「自分の嫌なもの」に遭遇したらすぐに逃げる勇気を持つことだ。

嫌なことを我慢する必要なんてどこにもない。

我慢せずに逃げ、遠慮なく物理的な距離を置き、躊躇せずに繋がりを切ればいい。

関わりたくない相手と関わらないようにするというのも、幸せに生きるために大事なこと。

 

勇気が出ないと言う人にはアドラー心理学をおすすめしたい。

アドラー心理学の「課題の分離」という考え方は、周りを気にして生きている人には革命的な思考法だ。

簡潔に言うと、「相手が考えるべきことと自分が考えるべきことは本来関係ないんだからバッサリ切り離して考えようぜ」というもの。

生きるのがかなり楽になりますよ。

 

まとめ「良い意味で自分勝手であれ。」

 

今回のまとめとしては

・「いじる」は「いじめ」と紙一重

・嫌だと感じる場からは我慢せずに逃げよう

・自分のルールで良い意味で自分勝手に生きよ

といった感じですかね。

 

自分の意思を強く持って生きたいと改めて感じることができた一件でした。

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